烏丸御池駅
京都を南北に結ぶ烏丸通と、御池通との交点に位置する駅。当駅で烏丸線との乗り換えが可能。東西線が開業するまでは「御池駅」だった。東西線開業に向けて烏丸線の強度不足が指摘されたほか、地下鉄出入口の不備が消防当局から指摘されたことにより、駅工事部完成は開業ギリギリになったという。
平安京の烏丸小路を家名の由来とする烏丸家は、藤原北家日野家流(南北朝期に南朝方公家として活躍した日野俊基(?-1332)などが著名)の傍流で、名家の家格を有する公家である。名家は、ほぼ同格で武官の雨林家とはことなり文官の家柄であり、侍従・弁官(蔵人・蔵人頭兼任)→中納言や大納言へと進むのが一般的であった。また、通常は大納言が極官であったものの、この烏丸家や万里小路家のように内大臣まで昇進する者を輩出する家も存在した。特に室町時代中期、足利将軍家と結びついた烏丸資任(1417-1483)は従一位・准大臣まで昇進し、有馬持家ら今参局らとともに「三魔」と恐れられた。
悪政としばしば指摘されるこの足利義政の治世、1461(寛正2)年の山城大飢饉のとき義政は、六角堂の前に救済小屋を建立し、時宗の僧願阿に命じて、洛中に流入した貧窮者に対し粥施行(かゆせぎょう)を行なわせた。寺地が下京の中心であったことから、特に応仁の乱の後から六角堂は町堂として町衆の生活文化や自治活動の中核となる役割を果たすようになった。応仁の乱以降、下京に危機がせまると、この寺の早鐘が鳴らされるようになった。また、京都に乱入する土一揆や天文法華の乱(1539年)などでは出陣する軍勢の集合場所となったり、あるいは下京町組代表の集会所になったりしている。ちなみに、朝廷権威が蔑ろにされつつあるこの時勢に、ときの天皇・御花園天皇は毅然とした程度で義正を批判している。彼は漢文をもって諫言したエピソードは有名である(「長禄寛正記」)。以下にその漢文と抄訳をあげておく。
殘民爭採首陽薇, 處處閉廬鎖竹扉。
詩興吟酸春二月, 滿城紅綠爲誰肥。
訳文:人々は飢餓に苦しみ爭つて首陽山の蕨(わらび)を取つてその飢えをしのいでゐる。 どの家の竈(かまど)も火が消え、扉を閉ざしてしまつてゐる。 本來なら心が彈み、詩心が湧く春である筈なのに何と不幸なことか。花や木は一體誰の爲に輝やかせていただいてゐるのか。民の働きの御陰であらう。