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 京都市山科区にある駅。JRとの乗り換えが可能。東西線の駅はJR・京阪京津線との連絡のために設けられることが決まった。しかし実際には京阪京津線との接続駅の役割は隣の御陵駅が担っている。また、地下鉄建設と同時期に駅前の再開発が行われた。再開発以前は京阪線とJR線の間に京阪バス乗り場があった。現在は京阪線より南に路線バスおよびタクシー乗り場がある。同バスターミナルには京阪バス(山科・醍醐・六地蔵方面)と高速バス(金沢・東京方面)が発着する。かつてよりこの地は、現在のように交通の要衝であり、活気あふれる街が旧東海道沿いや醍醐街道にはみられたが、地下鉄開業と前後して行われた再開発により、京都外環状線にメインストリートと活気の場を譲った。

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 さて、中世からこの地は山科荘と呼ばれる荘園があり、この地を山科家(羽林家・藤原北家四条庶流)が統治していた。南北朝期から山科家は、歴代内蔵頭を拝する家柄となり、朝廷経済の最高責任者となった。内蔵頭は、既に室町期にはもはや形骸化しており、役所も存在していないものの、天皇が着用する装束などを貢進する供御人などを支配下に収めるなど、実質的な権能は依然として有していた。戦国期になると朝廷経済の逼迫は言うまでもあらず、当時の権中納言・山科言継(1507-1579)は後奈良朝・正親町朝での金策に奔走したことで著名である。彼の著書「言継卿記」は、戦国期の政治的事件に留まらず、民衆の社会文化や世相を記した一級史料である。

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