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伝承では源義経(1159-1189)と静御前が出会った場と言われ、また神泉苑の池が京都市の東西に伸びる通りの一つ「御池通」の名前の由来であるとの説もある(異説あり)。二条城の南(押小路堀川東入ル)には昔の神泉苑の東端を示す石碑がある。これは東西線に関わる工事の際に判明したものである。
なお、R=200とR=240で横断する烏丸通と押小路通の交差点付近には、古くは押小路烏丸殿があった。これは、鎌倉期に藤原北家九条流が五つに分裂し成立した、所謂「五摂家」のうちの一つである二条家(歌道の家で知られるものとは異なる)の邸宅として著名である。二条家がここに居を構えたのは永仁年間(1293-1298)とされているが、詳しくは判明していない。室町期には二条良基(1320-1388)などを輩出したもの、応仁の乱で荒廃。織豊政権期に二条晴良(1526-1579)が復興するが、織田信長に接収され、代わりに誠仁親王が居を構えた。本能寺の変(1582年)を期に消失し、現在は面影も残していない。
さて、蛇足ではあるが二条家は他の摂関家とは異なる役割を果たしていた。即位灌頂と呼ばれる儀式である。この儀式は天皇の即位時に秘儀としてされたもので、13世紀(一説には11世紀)から江戸時代まで歴代の天皇の即位式で通して行われた。そもそも、灌頂(かんじょう)とは、密教においては、頭頂に水を灌いで諸仏や曼荼羅と縁を結び、正しくは種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式のことを指す。天孫降臨神話をもつ天皇家にとって、この儀式は神仏習合の風潮を追い風として制度化したものではないかと思われる。
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