醍醐駅
京都市伏見区にある駅。1997年に二条~醍醐開業の際に開業した駅で、当初は終着駅だった。2004年に醍醐~六地蔵開業により中間駅となった。地下鉄建設と醍醐地区の再開発が並行して進められた経緯から、駅と直結する施設内に醍醐バスターミナルや商業施設・パセオダイゴロー、そしてその地下部に東西線の醍醐車庫が位置している。醍醐車庫はパセオダイゴロー西館の地下にあるが、入出庫は配線の都合上できないため、六地蔵~小野で回送列車が設定されている。2013年の台風18号による御陵駅の冠水により19日夜まで烏丸御池~小野で運休したが、これは折り返し用の非常渡り線が烏丸御池駅東側と小野駅の醍醐車庫への出入庫線にしかなかったことを理由としたためで、浸水していなかった烏丸御池~蹴上・山科~小野も運休となった。
世界遺産・醍醐寺の最寄り駅である。醍醐寺は874(貞観16)年、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝(しょうぼう、832-909)が准胝観音並びに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山し、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けたものである。
聖宝は、天智天皇の6世孫にあたり、俗名を恒蔭王(つねかげおう)と称した。宗祖である空海の教義を受け継ぎつつ、「南都六宗と真言密教の融合」や奈良時代以降衰微していた修験道と密教を結び付け、「小野派」と呼ばれる宗派を形成したことでも知られる。宇多・醍醐天皇に重用されたとされ、以下のエピソードが「宇治拾遺物語」巻十二にある。
昔東大寺に上座法師のいみじく富裕きありけり 、つゆばかりも人に物与ふる事をせず慳貪に罪深く見えければその時聖宝僧正の若き僧にておはしけるがこの上座の物をしむ罪のあさましきにとてわざと争ひをせられけり。御房何事したらんに大衆に僧供ひかん、と云ひければ上座思ふやう、物争ひしてもし負けたらんに僧供ひかんも由なし。さりながら衆中にてかく云ふ事を何とも答へざらんも口惜し、と思ひて彼がえすまじき事を思ひめぐらして云ふやう、賀茂祭の日真裸にて犢鼻褌ばかりをして干鮭太刀に佩きて痩せたる女牛に乗りて一条大路を大宮より河原まで、我は東大寺の聖宝なり、と高く名告りて渡り給へ 、しからばこの御寺の大衆より下部に至るまで大僧供ひかん、と云ふ。心中に、さりともよもせじと思ひければ固くあらがふ聖宝大衆皆催し集めて大仏の御前にて鐘打ちて仏に申して去りぬ。
その期近くなりて一条富小路に桟敷うちて、聖宝が渡らん見ん、とて大衆皆集まりぬ。上座もありけり、暫くありて大路の見物の者ども夥しく喧騒る。何事かあらん、と思ひて頭さし出だして西の方を見やれば牝牛に乗りたる法師の裸なるが干鮭を太刀に佩きて牛の尻をはたはたと打ちて尻に百千の童部つきて、東大寺の聖宝こそ上座と争ひして渡れ、と高く云ひけり。
その年の祭にはこれを詮にてぞありける。さて大衆各寺に帰りて上座に大僧供ひかせたりけり。この事御門聞し召して、聖宝は我が身をたてて人を導く者にこそありけれ。今の世にいかでかかる貴き人ありけん、とて召し出だして僧正まで成しあげさせ給ひけり。上の醍醐はこの僧正の建立なり。
ちなみに、定かではないが899(昌泰2)年に宇多上皇が東大寺で受戒した際、聖宝が戒和尚を務めたとされる。この宇多上皇の出家により、ときの右大臣・菅原道真を排斥する流れに拍車がかかることとなる。