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椥辻駅

 

京都市山科区にある駅。京都橘大学の最寄り駅である。橘は日本固有の柑橘樹。みずみずしい常緑の葉と「ときじくのかくのこのみ」とも称される黄金の実は、古(いにしえ)より繁栄や長寿の象徴として尊ばれており、京都御所(土御門東洞院殿)に植樹された「左近の桜・右近の橘」でも有名である。京都橘学園の前身である京都女子手藝学校が京都御苑の西に位置したことから、右近の橘に象り、「日本の文化に根ざした香り高き人材を育成する」誓いを託し、「橘」と命名されたという。

 

 付近にある歴史的遺構としては、大石神社と坂上田村麻呂の墓がある。大石神社は、忠臣蔵の吉良邸討ち入りを主導した大石内蔵助良雄(-1702)の隠遁地にちなんで創建された神社。坂上田村麻呂(758-811)の墓は、考古学的には西野山古墓と呼称される。副葬品の多くは現在、国宝や重要文化財に指定されている。

 

 生前の坂上田村麻呂は、武官としての才はいうまでもなく、文吏としての才もあった。侍従や中納言・刑部卿などの職も歴任し、桓武・平城・嵯峨朝の三代にわたって廟堂に重きをなした一方で、仏教にも信仰が厚く、蝦夷の族長・阿弖流為をはじめとする、自らが殺めたものたちへの往生を願うための清水寺を創建したことも有名である。811(弘仁2)年、粟田の別邸にて没す。享年54。六国史のひとつ「日本後記」(卷廿一弘仁二年(八一一)五月丙辰【廿三】の条)には、彼の死に際しこう書かれている。

 

 

○丙辰。大納言正三位兼右近衞大將兵部卿坂上大宿禰田村麻呂薨。正四位上犬養之孫。從三位苅田麻呂之子也。其先阿智使主。後漢靈帝之曾孫也。漢祚遷魏。避國帶方。譽田天皇之代。率部落内附家世尚武。調鷹相馬。子孫傳業。相次不絶。田村麻呂。赤面黄鬚。勇力過人。有將帥之量。帝壯之。延暦廿三年拜征夷大將軍。以功叙從三位。但往還之間。從者無限。人馬難給。累路多費。大同五年轉大納言。兼右近衞大將。頻將邊兵。毎出有功。寛容待士。能得死力。薨于粟田別業。贈從二位。時年五十四。

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